A Diary
煤(すす)が描いた黒い渦の話
今朝あった出来事。些細なことからの気づき。
瞑想タイムのためにキャンドルを灯すにあたり、オイルウオーマーの蓋をティーライトの受け皿にしようと思いつく。しかし、以前ウオーマーとして使用した時のススがたっぷりとその裏側についていて、蓋を載せた私の片手は真っ黒に。さらにそこからこぼれおちたススにより、大事な仕事用のデスクの一部もまた真っ黒に。それを拭き取ろうとしたらば、ススって本当に粒子が細かいようで、かえって広がり、拭き取るためにティッシュで円を描いた通りに、デスクの上に怪しい魔法が降り立ったかのように黒い渦巻が出来てしまった。更には、床にもてんてん、と。
瞑想どころではなくなり、裏側にススが積もるように付着している小皿を洗いに洗面所へ。しかしそこでも、水に流れて消えていくことなくススは、純白の洗面台の水受け(掃除したばかり!)にアヤシイ黒い斑点を無数に出現させた。・・せっかく早起きしたのに。朝から面倒なことになったな、と思いつつ、淡々と対処を始める。まず洗面台は届いたばかりのヒバの粉石鹸ですぐにきれいに。何か象徴的な出来事だと感じながら、ヒバ(ヒノキチオールを含む樹木はシャンバラ系、ヴェガ系と感じる)の白さと清涼な香りで黒い点々を一掃したという気持ちよい感覚を味わい。
問題の部屋のデスク。アルカリ系のスプレーやウエットで拭いてみたけど殆ど効果は無し。ふと目についたのが、体の凝りなどに効くいつもお世話になっている、オーガニックのボディバーム。こちらはローズマリーの香り。体に塗るものであるにも関わらず、天然木の天板についたスス汚れは、ミツロウで落ちるのではないかという直感があった。試してみると、びっくりするくらいに落ちる。そう言えば、無垢材の家具や床板などに使用するミツロウがあったっけ・・と、仕舞ってある場所へ取りに行く。
戸棚を見ると、同じコーナーにオレンジオイルが居た。こちらも同じく無垢材や、ギターのボディなどの木の部分のお手入れに使用するものだ・・・このオレンジオイルで、デスク上に描かれていたアヤシイ黒い渦は簡単に見事に綺麗になり、よくよく見ると Wood Cleaner & Polish と書かれていた。そうか、クリーナーだったのか。今までワックスのようにしか使っていなかった。汚れを落としてくれものだったのね、と気づく。
デスクの天板、全体をそれで綺麗に。以前も一部にほんの少しだけ、付けてしまっていた同じくキャンドルやインセンス由来のススも、ティッシュでこすってかえって木目に残ってしまっていたけど、それも見事に綺麗に。
こんな些細な出来事から。洗面台やデスクが以前よりピカピカ、綺麗になり、自然派のクリーナーでそれぞれアロマとともに磨かれてリフレッシュされる姿に、何かピ〜ンと来るものがあった。ちなみに同じくアヤシイ黒い円が描かれた私の左手の平は、普段から使っている月桂樹オイルのアレッポの石鹸できれいになった。
デスクの片隅には、以前からスス汚れが小さく付いていたけど、小さいし端っこだから、まあ良いかとそのままにしていた。同じものが、さらに目立つ場所に大規模に展開されてしまったら、そのままではデスクは使えないから、今すぐ解決しなくてはならなくなる。動くことを意図する。そして使える手段を探して・・ひらめいて、結果、以前よりもずっと良い状態へとリフレッシュ、以前からの小規模の汚れもまた一掃されて、全体でリニューアルする。
セイキムレイキの伝授を受けた時に先生から、「小さなシミだと思っていたものが、より強い光が差して来たことで大きな汚れだったと気づく」という言葉を聞いていた。セイキムの高く強い光には、そういった現象、変化のプロセスが伴うものだ、と。「光と闇の統合」がテーマであもあるセイキム。それまで大人しくして隠れていた「闇」が、出て来たりするから中々に、伝授の場においても波乱がある。(だからこそウスイ、カルナでしっかりと自己浄化をしてから臨むべしと考えている)
時代の変換点も、個人の変化の時も、それまでは「小さな汚れだし、別にたいして邪魔にもならない」と放っておいた(共存していた)ものが、もうそれ以上は放置してはおけないという段階が来て、向き合わされると大きな問題として浮かび上がって自己主張したりするのだろう。社会は今、そのような段階を迎えているのだろうと思う。片隅でひっそりと存在する汚れならば見過ごしておいてもいいのかもしれない、けれどそうは言っていられない影響力、広がりが現象化し、向き合わざるを得なくなる。様々なジャンルで、今、これから、より顕著にそれが起きていく。
大きな変換点においては、小さなシミも大きな汚れとしてクローズアップされる。炙り出されて、もう「小さいから」と隠すことは出来なくなる。
地表世界の周波数は上がっている一方で、集合意識場がそれと比例していない感じがするのも、まさにそういうプロセスにあるゆえだろう。「いやいや、世界は何も変わっていないよ。今までのままだよ。」という空気が一番、要注意だろうと思う。
自分自身が強くまっすぐ立っているから、「大丈夫、世界は私たち自身が創造するのだから」と、信頼して慌てずに在るのと、事なかれ主義で「楽しさ」や「気持ち」を重視してただ自分の世界をキープし続けるのは歴然と違う。けれどその両者は見分けがつきにくく、ぼんやりしていると同じだと見えてしまうものだった。今までは。
他の国々では当たり前のような人間性の話が、日本では段階を踏んであえて説明しなくてはいけないような事になっている。世界経済において「日本病」という言葉さえ生まれてしまった今日だけど、経済・社会だけではなく何より精神における「日本病」を、自覚して抜け出す人々の空気を、今年、2023年は感じられるだろうか。
Love and Grace
Amari
脳・意識の自己管理
1月「白い聖堂」シャンバラのその後のトレーニング期間が続いているよう。学んだことは、今までと同じように対処するのではなく、学んだ通りに対処できる自分に切り替えていく。けれど人間、そう簡単には切り替え出来ないから、学んでいる時こそ、うまく切り替え出来ていない時こそ、繰り返し練習問題が来る。というのが、シリウス式だ。
アルガンザのグループで、恐らく5年以上かけて取り組んできた(そんなつもりは無かったものの向き合わざるを得なかった)リリス、イワナガ問題が意外にも「セラフ」という帰結点に到達したことで、「なぜこういう段階のモノが自分に来るのだろうか?」とずっと思いながらだった、女性性の四次元的なモノによる襲来・・は無くなった。年末あたりに書いていた「月のセラフ」や「イシルコン」を理解出来れば、そしてそれを自分には関係ないと思わずに、自分の一部として受け止められると、この課題からは抜けられるようだ。
その一方で、脳の潜在意識にこっそりと送信するようなタイプのストーキングは、これからの時代のサイキックアタックの主流なのかも。というか、古来、その手のマジックにも含まれていただろうし、日本のダークな祈祷のようなものでも行われて来ただろうと思う(今でも)。何となく意識が下を向く、自分や信頼すべき相手(家族や仲間)をなぜか急に信じられなくなる、など。人によっては健康にも影響が出る。
「インセプション」という映画を見ておいて良かった。(以前の日記に書いています。タイトルから探してネ)
自分自身がしっかりしている人、やれるだけのことをポジティブに日々やれていると自負する人は、おかしな周波数が来た時、それが自分のものではないと感じることが出来る。今世まったくスピリチュアルに関わっていなくても、過去生から既にしっかりしている人は、人格レベルでそのようなものをフっと振り払って、常に爽やかな世界で生きているという人もいる。
多くの人はその過渡期にある。私が初めてダークなマジックが集団に作用する現場を経験したのはもう10年以上前のこと。賢い人たちの集団だったから、既に気付いて教えてくれた人たちが居たので助かった・・けど、途中からはエナジーワーカーとして対応するステージで、もう人にはシェア出来ない話をひとりで抱えながらのことだった。そこでやっぱり、もっとも顕著だったのは脳への情報の注入・・で、
ヒーラーをやって来て既に長かったので、私の場合は最初にそれを感じ取った時(まだ、他者から情報が入る前)、上空から暗い雲のようなものが流れ込んで来るのが見えていた。その瞬間、ズン・・・と波動が下がって、同時になぜかとある人の顔が浮かび、急に「信じられない」という不安が湧いて来たのだった。立場的には、信頼出来なければその集団にはいられないという立場の方。特に直接なにかあった訳ではなく、それまでは寧ろ互いに信頼感が築かれつつあったところに、まさに降って湧いたように起きた現象だった。
後から思うと(人からの情報もあって)、あちら系のマジックで、送り込まれた力だったのだろうと知った。昨日のツイートにも書いたように視覚化が出来る(自然と起きる)ことは、身を守る重要なスキルである。ちなみにそのマジックの意味をまだ知り得ていない後日、実際にコトが起こって、その(急に不信感が湧いてきた)方と対峙することになった・・が、その過程で、ヒーリングで学んで来た信念と、あるべき人としての善や愛の力を頼りに、ハートを開いて話し合ううち、善なる力の介入もあり、事無きを得たのだった。要はそちらの力は、私(こういう仕事をしている)をそこから追い出したかったのだろうと思う。
経験から、善なる意識を持った人たちが二人、ないし三人以上で団結すると、そちらの力に負けることは無い。孤独になってしまうのは危険。
その手の力が働く時、空気が暗くなって、エレベータで降るようにずんずんと下がっていく体感、足が水に浸かるように冷える体感などもある。そして急に人々は不安になり、悲しくなったり、不信感を吐露しあったりし始める。グループや、集団、プロジェクト、(時にはカップルや家族などもあるかも)を分離させるのがそちらの目的だから、である。過敏な人がいると実際に体調や、さらに悪いケースは精神を壊す。ウツになる、など。
そういった介入の始まりに、インセプション的な・・・脳の、特に潜在意識レベルの「何となく」の層に入り込んでくる。それに普通に操作されていてはエナジーワーカーとは言えない。常にポジティブ=自分 という自己イメージを、スタンダードに出来ていれば、「あれれ、おかしいな」と気づく事も出来る。
そんな操作が、もしかすると社会全体でも掛かっているのかもしれない。
けど、笑顔で爽やかに自分を生きている人々はたくさん居る。その段階まで、抜けることが大事。
となると結局、自分自身の弱点や、欠点を、直して成長していく他ないということ。何より悲しんだり迷ったりしているのは良くない。弄ばれてしまう。
脳のプロテクション、これからのスピルチュアルのテーマになるだろうと。チャクラやライトボディの管理とともに、意識に入れていくべし。
Love and Grace
静かなる情熱 エミリー・ディキンソン
I held a Jewel in my fingers-
I held a Juwel in my fingers -
And went to sleep -
The day was warm, and winds were prosy -
I said "Twill keep" -
I woke - and chid my honest fingers,
The Gem was gone -
And now, an Amethyst remembrance
Is all I own
(Emily Dickinson)
わたしは宝石を握りしめ 眠りに就いた
その日は暖かく 風はさりげない
わたしは言った なくなったりはしない
目覚めると わたしは正直な自分の手を責めた
宝石は消えていて
アメジストの想い出だけが わたしに残されたすべてだ
(翻訳: by Amari)
大寒波、関東(東京・神奈川付近)では夜中の暴風と降雨が明けて、翌日(昨日のこと)は終日すご〜く気温が下がっていたもののそれだけで済んで、相変わらずの青空と太陽の日が続く。その分、雪雲を受け止めている日本海側では、ニュースは見ていないけど、ヤマトさんの荷受けが止まっているのでさぞ大変なことになっているのでしょう。新潟の海沿い出身者として、降雪だけでなく日本海から来る(シベリア発?)強風の大変さ、どれほど体力や気力を奪われるかは今もって忘れることは無く、心よりお見舞い申し上げます。
さて、表題。少し前の休日に、見る映画を何気なく探していて『静かなる情熱 (エミリ・ディキンスン)』を見つけて。ここに書こうかなと思っていることは殆ど、視聴後に見てみたオフィシャルのトレイラーのナレーションで語られていたので、興味のある方はそれを見て頂ければと。。
https://youtu.be/QvhGkGPNVKw?t=4
ディキンソンは、どこでも同じ、キャッチコピーのようなフレーズで常に紹介されているようだ。「生前はわずか10遍の詩を発表したのみ、無名のまま死去。その後発見された1800の詩が公開され、今では『アメリカを代表する天才詩人』と呼ばれる」というような。先に何の準備もなく映画を見てしまったので、一言でいうと私の印象は、「とてもよくわかる」そして、アルガンザの言語で語ると「人間界が生きづらかったアンドロ族」といったところだ。それもエルフ的、シャンバラ的(シリウス的)高潔さが強く。
南北戦争時代のアメリカ、良い家に生まれて良い教育を受けて・・という恵まれた環境にあって、学校やキリスト教的縛りや、当時の上流階級のしきたりや「常識」などに、反発する勢いが若い頃にはあった。少し斜めに見るとそれはやはり、家がちゃんとしていたからだろうと思う(言い換えると、土台が安定しているからこそ、強い態度でぶつかるというワガママも通用したという)。社会に対して、自分の魂は自分自身のもの、誰の言いなりにもならない、と、自分の「自由」を掲げていたところから、
最終的にはその社会にやはり負けてしまうというか、地上で生きる中で、魂の自由を叫ぶことの限界、肉体の限界(難病にかかる)、家族や周囲で起きる現実の諸問題での疲弊、などなど。「気持ち」や「高潔な意識」では、どうにもならないという現実世界の厳しさに、一個人としては敗北していくように見える。多くの芸術家、文芸家などがそうであったように。日本の金子みすずをも思い出させる。確か、家族を養うなどの生活の重圧で、自ら命を絶ってしまったのだよネ。上げたらキリが無いくらい、そのような芸術家は無数に居る。
ディキンソンは病気に掛かるという形で、自らこの世を去って行ったのかも。50代半ばの早逝であったよう。持っているかも?と本棚を探したけど無かったので、幾つかの詩集を買った。映画の中でも印象的かつ「わかるわかる」とアンドロ気質が深くうなづいたセリフが幾つかあった。兄の不倫を許せまじと咎めて喧嘩になった時、妹が「みんな人間なのよ」と、人々の心が決して清廉ではないのだと諭すと、「世界はなぜこんなにも汚れてしまったのか?」などなど。人の心の穢れにさえ、自分が傷ついてしまうのだ。
若い頃は詩人であるという自負と、家に守られて強気で、世の中を批判することも出来ただろうけれど、40代、50代と・・辛かっただろうな。金子みすずのような「家族を養う」重圧は無かったかもしれないけど、欧米の当時の上流社会は、結婚だとか女性の役割だとか、かなりのプレッシャーがかかっていただろうし。そんな社会はお断りよという強気な態度であったところから、次第に自分自身が、社会に出れない引きこもりのような状態になっていき、敗北感を感じ始めた頃の混乱や不安は大きかっただろうと。そこから患っていったのではないかと、勝手ながらに想像する。
この時代に、手の届くところにヒーリングやニューエイジ概念があったなら。きっと元気に生きていられただろうに。魂はそう、自由だし、自分自身のもの。教会の指示や世間の偏見にあなたまで染められなくてもいい。自由に選択して、生きていっていい。・・・ああ、それを思うと、今はアンドロさんたちが生きやすい時代なのだと悟った。それでも生きづらいけど(笑)、社会的な重圧や環境は、このころ(150年前くらい)とは比べものにならない。
本人は社会と同調できずに崩れていくが、「没後に発見された」作品から、「アメリカを代表する」「天才詩人」にまで昇り詰めるという極端な大逆転。時代のズレがあったのは仕方ないけれど、もしかすると何か手立てがあったのでは?と、今の私は思う。もし若いころディキンソンについて深く知る機会があったらば、恐らくかなり同情し、ファンになっていたかもしれない。この手のパターンを過去生で繰り返した気がするから。けれど今世、ヒーリングと出会ったお陰で、そんなアンドロシリウスの高潔系エルフ種族の芸術家?たちが、何も社会に幻滅して滅びていく必要は無いと思っていて。
究極は、ある意味、期待しなければいいのだ。
自分がやりたいことをして生きている、それで十分、と。ディキンソンは映画の中で「後世に残せれば良い」と語りながらも、落ち込む事があると「なにひとつ思い通りにならない」と嘆いたり、「誰もが自分を見捨てて去っていく」と悲しんでいる。アメリカ映画はかなり周到に研究などを踏まえて作られるものなので、恐らくそういったセリフの根拠になるような傾向が、作品から伺えたりするのかもしれない。1800遍をすべて眺める事は難しいけど、幾つかセレクトした詩集で、しばらくその世界に浸ってみよう。
それで思い出した!
私は小説を(読まないけど)書く。詩は(時々読むけど)自分では書かない・・・長文を書いたり長いストーリーを組み立てていく小説と、言葉をパーツにして伝えたい気持ちを刻む詩は、まったく違うもの。けれど、2014年に突然、ヒーラーとしての感覚をそのまま詩にしてみるという企画を、ひっそりと行っていて、リュミエールブランシュのショップカードの裏面にそれらのポエムを載せてみたり。その後、専用ブログを作って掲載したのが16篇。
当時作ったブログがなんとまだ残っている。歴代のブログを閉じたり、アーカイブブログでまとめたりとしている現状の中、その、幻の詩集ブログへの秘めた入り口があるのが(・・今回自分でも探してしまった・・)、旧ブログ「神様は青い鳥の中」の右カラムのリンクコーナー 一箇所のみ。きっと存在に気付いている人も居ないのではなかろうか。
(そういえばこのタイトル「神様は〜」は、金子みすずの詩の一部を文字ったのだった...)
今回のエミリー・ディキンソン試聴もまた、何かの導きと思って、この幻の詩集ブログをリンクしておくことに。
この「A Diary」に、全篇、掲載しようかな。そして気が向いたらというか言葉が降りて来たら、新作も書いてみたりして??
ではでは、今日はこのくらいで。
Love and Grace
Amari
P.S. 旧ブログ「神様は青い鳥の中」の最初の記事で、ネーミングの背景として金子みすずの詩や詩人について少し語っています。こちらもリンクしておこう。
https://blueandwhitecastle.blogspot.com/2015/09/blog-post_25.html
ジェンダーギャップの国
昨年の夏に例年のように発表された世界経済フォーラムによる「ジェンダーギャップ指数」。毎回日本が先進国とは思えない位置にランクしている事にも慣れてしまっているけど、最近政府が色々と対策を示している(?)ようなので、改めて考えてみる。というか、個人的にはもう考えることも疲れてしまって、「無」の感覚になっている日本社会の現状さまざまのファクターのひとつではある。が、改めて。
2022年度、日本は、対象となった146か国中、116位だった(2021年は156か国中120位)。比較対象として日本と関係の深い国の順位を挙げると、アメリカは27位。日本と社会構造や抱える問題がよく似ている韓国は99位。中国は102位、とのこと。先進国と呼ばれる(もうそうではないという声もあるが)国で、このような順位にいる国は当然ない。日本より前の国々を上げるのは大変だから、後ろに連なる117〜146位までの国を挙げてみる。
モルディブ、ギニア、レバノン、チュニジア、ガンビア、ヨルダン、ナイジェリア、トルコ、アンゴラ、ブータン、サウジアラビア、ニジェール、エジプト、クェート、バーレーン、マラウイ、コートジボワール、コモロ、インド、モロッコ、カタール、ベナン、オマーン、アルジェリア、マリ、チャド、イラン、コンゴ、パキスタン、アフガニスタン 以上
こうして見るとやはりイスラム教国が多い。中東以外のアフリカ諸国や、島国のモルディブなども国教がイスラムのよう。それ以外で目についたのがブータンとインド・・それぞれ宗教的・文化的な背景があるのだろうなと思う。ブータンはそれでも最近、積極的に女性の社会進出を推奨する政策をとっているよう。インドはよく取り沙汰される女性蔑視的な問題がまだまだ多く、ヒンドゥー教の伝統に沿って生きる人々だけに、その「教え」の中に組み込まれている現代の国際社会から見たら考えられないような人権侵害、女性差別が慣習として続いている故だろうと。
インドは中国とともに、これからの世界でアジアの中心的な存在になるのかもしれず、勢いに乗っている部分もありつつ、これから社会の慣習の見直しなどが、必要になっていくのだろうな。インド哲学、ヨーガ思想、アーユルヴェーダなど古代にインドで保存された素晴らしい叡智は、インド人の頭の良さとも関係しているのだろうと思うけれど、本格的にインド好きになる、インドに学びに行く、という気になれない理由はそこにある。。。
とは言え、日本も静かにじんわりと平和的に、作りあげられているジェンダーギャップ社会。この世界経済フォーラムの統計では4つの項目で指数を算出しているそうで、そのうちの教育と医療では日本は問題ない。教育はなんと1位! それ以外の2項目、政治と経済でかなり評価が低いゆえの「116位」。・・確かに、医療や教育を受けるにあたって、女性が差別されるようなことは余り無い。教育に関しては、数字ではどうであれ、心理的なジェンダーギャップは社会構造の中に漂っているのでは?と個人的には思う。
何しろ私も親の経済事情から「短大で国公立限定」と言い渡され、素直に県立の短大を受験したけど、合格した後に父に「息子だったら私立の四大を許したかもな」と呟かれて気絶しそうになった過去がある。。それは、新潟が男尊女卑の風潮があるゆえかもしれないケド。
女子たちも多く四大に進学するようにはなっている日本・・けれど、その先、就職後や結婚後の生活の中で、相変わらずジェンダーギャップが続いているのでは、何のための進学率なのだろうかという気もする。
そしていつもこのような話になると言っているように、私自身がこれまで生きて来て肌で感じて来たことから、日本の女性たち自身が、それをどうにかしようと立ち上がること、盛り上げることを怠って来たゆえの現状だろうと。女性同士の付き合いの中で、それはずっと感じて来た。もっと「大志」を抱こうよ・・・と、周囲の友人たちや女性陣に伝えることすら、いつしか諦めて。自分は自分の道を。
昨今、SNSでは声を挙げている女性たちは増えて来ているけど、もっと根本的な部分、日本人の心の深層のような部分で、どうにもこうにも、動こうとしない、現状維持の思想のようなものが、男性にも、女性にも、あるのではないかといつも思っている。
日本を出た人たちは、日本の特殊さをよく分かっている。けれど最近の若者たちは、留学や、海外に行くという夢さえ、あまり抱かなくなっているとか。専業主婦を望む女子も増えているとか。そう言う意味でも、政府が幾ら政策を掲げても、ジェンダーギャップを埋める道のりは難航するのかもしれない。インドもそうだけど、日本独自の、民族学・民俗学的な考察を通した、日本なりの未来のジェンダーシフト、パラダイムシフトを考えていく必要があるのかもしれない。
ひとまず私個人としては、見えない「大和撫子」設定をアストラル体から外して、個々の人間として、魂として、自分自身を生きようとする人々を応援したい。
Love and Grace
緑豆の花
関東はようやく「恵みの雨」。個人的なガイアワークを行なうために出歩いていた或る日。当日は雲一つない青空で「おしるし」は出ないのかなと思っていると、翌日はほぼ一日、盛大にイシルコン系の雲が広がっていた。先日Info に書いたような大規模なワークが起きると、信じられないくらいにエネルギーがスッキリして、「ああ、ひと仕事終わった」と感じられるものだけど、今回はそれが無いまま、翌日、さらに翌日と経ち。
おかしいな、と思いながら翌朝に出ていた「イシルコン系」の空模様の写真をよくよく、スマホではなくデスクトップのMacの大画面で見てみると、おしるしが出た、と安心していたものの、決して空の様子もスッキリしてはいなかった。珍しく全ての方角に、それぞれ長細くたなびく、羽毛をもつような壮大な「ナガ系」の雲が広がっているけれど、炙り出されただけで、先日の(白い聖堂の翌日の)ワークのように昇華されていく自然界のエネルギーたち、主たちを見送ったという訳ではないことに気づいた。
そうなんだ、きっと、アルガンザの関係するある程度の範囲でワークしたのが、過日Infoに書いた内容であったけど、更にその外周や、もしかすると世間全般か、少なくともより離れた集合場のグループで、同じ系統の作用の波及が起きていますよ、という、空模様のおしるしだったのかもしれない。そう思うと、昨年3月にやはり同じように、最初は個人レベル、さらにアルガンザの周囲のグループ的なソウルの集合場、さらには世界全体?と、同じ原型テーマが波状に規模を広げながら伝わっていくような感覚の中で、Face Book に同じような空模様の写真を載せて「戦いを感じる」と呟いていた直後(翌日だったかな、)ウクライナ侵攻のニュースを耳にしたあの時によく似ている。
炙り出されたけれど、その波及と浄化と昇華はこれから起きていく。そういうことなのか・・と、画像を整理しながら感じていた。
と同時に、確か「火星逆行」が1月13日までだったっけ、と気づく。今日は14日だから、昨日までということか。そう言えば昨日の夕方ころ、急に何とも言えず不穏な「天が落ちて来る」という感覚で次元が、時空がゆがむような数分間があり、「これは何だ?」と思っていて・・昨夜、就寝前に瞑想をしておこうと座ったらば、火星的な(戦い、争い)エネルギーの集合場の乱れ、のようなものを感じて、これは寝てられないな・・・と、3時間くらいずっとワークをすることに。その中で見えたメッセージ的なものや、体感などから、ちょうど今見ていた韓流時代ドラマ「緑豆の花」の影響もあるかも・・少なくともそれが刺激になって、
130年ほど前、世界の作り替えの激動期のアジア情勢や日本軍のイメージ、さらには中国、朝鮮半島、日本列島の古代からの人種や人の往来、混血、文化や宗教がかつて日本で合流していく、良くも悪くも「日本」が作られていく歴史の流れとカルマ的エネルギーを、アカシックを通じて受信しているような状態になっているかも・・・と、3時間ほど経過したところで気づいて(!)
その後、自分が普段周りに置いて寝るような高波動の石たち(マスターウラルたち、ウラルの水晶、トパーズたち等)をいつもどおり配置したら、問題なくスイっと周波数が上がって眠りに就けた。。自ら見に行ってはまって何をしているのだろう?という感じだけど、上に書いたウクライナ戦線と同じように、というかそれ以上に、日本、半島、中国・・つまり東アジアでの情勢は、いつ表面化するかという所もあって、まだ先だと思っているけれど、水面下では着々と進んでしまっているのか、まだエネルギーレベルの情報を察知しているに過ぎないのか、色々と考えさせられた。
『緑豆の花』は、
1894年の日清戦争のころ、明治維新後の日本が「文明国」として「急成長」し、西洋の列強の真似をしてアジアの覇者になろうと動き出した最初の足がかりとなってしまった、朝鮮の、李朝末期の人々の戦いを描いている。史実に基づいて作られた、どこか日本の大河ドラマ的な真面目さをも感じさせる韓国ドラマだ。とは言え、スピード感と、恋愛なども程よく絡め、サイコパス的に壊れていく主要キャストの描き方などはやはり、韓流ならではの仕上がりで、面白くて全48話(1話が30分)、1日2話ペースであっという間に見終わった・・けれど、実際の歴史という明確な軸があるせいか、とても長く見ていたような感覚が残り、歴史体験をした、新たな体験が記憶に入ったという感じさえあった。
韓流ファンの日本人女性の方々からは「暗い」「男くさい」などの理由で、見れなかったという声もあるそうで、考えてみれば私は「ゲームオブスローンズ」などを全編見ていたし、『緑豆』を見て「暗い」とはまったく思わなかったけれど。(確かにずっと、歴史に基づいた戦乱の積み重ねなので、好みに合わない方もいらっしゃるかとは思う。何しろ戦闘つづきで、リドリー・スコット作品のような戦場のリアルな描写のようなものは見ていて辛い。)
日本人は見ておいたほうが良い。大日本帝国・・の所業、知ってはいたけど、侵略された国の人の目線で見ておくことは、重要だとも思う。初めての韓流ドラマとして「チャングム」を見た時から、おかしな倭人たちが出て来てチャングムに迷惑を掛けていたっけ(笑)・・その時から、いつかちゃんと時間を掛けて、李氏朝鮮王朝をいかに日本が侵略したのか・・を、勉強しなくてはと思っていて。だいたいの韓流時代劇では侵略者として登場するのは中国の各王朝な訳だけど、秀吉軍の侵略から300年振り、滅多に来ないだけに日本の侵攻、上陸はインパクトが強い。ずっと李朝の、それ以前の高麗、さらに三国時代の歴史ドラマを見て来ていると、綿々と続いてきたその国の歴史を、蹂躙しにやって来ることの罪深さが、ただただ日本で歴史を習った時とは比べものにならない感覚で入ってくるものだ。
もちろんドラマはドラマなので、変に感情的になったりはしない。静かな気持ちで48話見ていたけど、戦争に良いも悪いもなく、侵略に言い訳や綺麗ゴトなど、無いのだよなあ。。と。日本に限らずどこの国でも、いつの時代も、戦争に正統な理由など存在しない。ただ仕掛けた者がいれば、正義や国の権利のために応戦しなくてはならず。いやはや、せっかくの生命、人生、なぜ闘う事に費やさなくてはならないのか、人間のサガを改めて悲しく思う。革命軍を組織し、国に代わって立ち上がり戦った市民たちの実話。東学党の乱、農民戦争、と呼ばれているらしい。
物語は実在する東学党の革命軍の主幹的な人々と絡む形で、ドラマの架空の人物である「ペク家の兄弟」が中心軸として描かれる。兄だけど庶子であるイガンと、弟のイヒョン。逞しく荒くれ者のイガン、理知的で理想主義者のイヒョン。ドラマ冒頭では、父親(ブラック系のどうにもならないような人格)の影響を受けて、悪行が多かったイガンは、革命軍との出会いにより改心、義兵として成長していく。一方で貴公子のような一家の自慢の息子イヒョンは、時代の変換点の混乱の中で受けた傷により、人格的に壊れてどこまでも落ちていく。時代の犠牲者、という役どころだ。
良かった点。革命軍の男たちがかっこいい。まあそうだよね、それが醍醐味のドラマだろうから。イヒョンの壊れ具合は、痛々しいを通り越して、お茶の間もちょっと辟易するほどのサイコパス振りで、同情できる余地がないほどだった。けど、アルガンザの世界観で「ブラックソウル」と呼ぶ、ハートも血も涙もないようなタイプは父親の血筋で、けれど父親よりはずっと薄まっていて(母が比較的まともなお陰で?)・・父のように完全に魔性に自分を明け渡すようなことにはならず、何とかその性質の遺伝的な連鎖を断ち切ったという終わり方。父親も次に生まれる時には、だいぶ薄まって人間らしくなることだろうと思わせる。同じ父から生まれつつ(異母兄)、母親の太陽のような?性質を受け継いだせいか、イガンは闊達で、底抜けに頼れるヒーロー的人格に成長していく。
もう一つ良かった点は、女性陣がみな強くてしなやかであった事。女性キャストはそれほど多くはないが、男性をしのぐ真っ直ぐさ、安定感で、「男らしい」女性たちが見ていて安心出来た。
それにしても・・「日本軍め、もう辞めてくれ」と何度思ったことか。王統や歴史はその国の精神、真髄のようなもので。フランス革命のように国民自らが倒したという訳ではなくて、弱体化・腐敗化していたとはいえ、他国からやって来て歴史あるものを簡単に壊すなんて。清朝の最後も同じく・・・ 世界中同じような事はたくさんある訳だけど。戦争をしない、他者を侵略しない在り方、存在の仕方を人類が学べるのは、いつなのだろうかというため息と共に。それでもまっすぐしなやかに自分を生きようとする陽であり善である人々の心の強さに、静かに胸打たれつつ、見え終えたところ。
しばらくの雨で、火星的な力の強まっていた時期に、炙り出されたものが鎮静されるのだろう。乾燥も程よく収まって、バランスが取れることを願ふ。
Love and Grace